アテネのアクロポリス ~民主主義のさきがけ~
こんにちは、セカケンです!
今回紹介するのはこちら!!アテネ!!!
アテネは、地中海沿岸ギリシャ共和国の首都です。オリンピックが生まれた場所としても有名です。
アクロポリス形成
紀元前8世紀ごろ、ギリシアの人々はアクロポリスと呼ばれる丘に神殿を建て、そこを拠点に集まって住み都市国家(ポリス)を形成しました。
アテネのアクロポリスにも、戦いと知恵の女神アテナに捧げる神殿など、様々な建造物が建てられました。
この女神アテナが都市名アテナの由来であるとされています。
紀元前500年に始まったペルシア戦争で、アテネのアクロポリスはペルシア軍の攻撃により壊滅的な打撃を受けましたが、指導者ペリクレスは諸国から集まった資金を背景に、女神アテナに捧げられたパルテノン神殿をはじめとする壮大な神殿群を建築して、アクロポリスを再建しました。
↑ディオニソスの劇場
アクロポリス北西部のアゴラ(広場)は古代ギリシャ民主政治の中心地であり、ソクラテスやアリストテレス、プラトンなど市民たちが政治や哲学を論じていました。
アクロポリスの南側にあるギリシア最古のディオニソスの劇場では、古代ギリシア三大悲劇詩人といわれるアイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスの劇や、アリストファネスの喜劇が上映されていました。
ここがポイント
この時代、貧しくて武具が買えない無産市民には参政権(政治に参加する権利)がありませんでした。しかし彼らはサラミスの海戦で三段櫂船の漕ぎ手となって、アテネの勝利に貢献しました。
この結果、アテネの無産市民たちは参政権をGETしたのです!!
こうして、18歳以上の男子市民全員が、民会に参加する直接民主制が誕生しました。
現在の民主主義はここから始まったのです。
メンフィスのピラミッド ~古代の王たちが築いた巨大建造物~
こんにちは、セカケンです!
今回紹介するのはこちら!!ピラミッド!
正式には「メンフィスのピラミッド地帯」として登録されています。
カイロ近郊、ナイル川西岸のメンフィス周辺には、約30基のピラミッドが点在しています。
中でも、ギザの三大ピラミッド(クフ王、カフラー王、メンカウラー王)は巨大です。
もっとも大きいクフ王のピラミッドは、平均2.5トンの石がなんと約230万個も使われ、建造時には高さが約150mあったとされているんです!
カフラー王のピラミッドへ続く参道の入り口に位置するスフィンクスも構成遺産の一つです。
これは、人頭のライオンで、古代エジプトでは守り神とされていました。
これらの巨大なピラミッドは、古王国時代(紀元前2650年~前2120年ごろ)に建設されました。
なぜ??古代文明が巨大なピラミッドを造ることができたのか???
ここがポイント
公共事業
ピラミッドは王の墓であるという説が有力ですが、ピラミッドを造るには人手がいります。
この人手を確保するために行われたのが、公共事業であったとされています。
乾燥した地域では、農閑期があります。王はこの農閑期に農民たちに仕事を与え、ピラミッドを建設させることで、王の権力を示していたのです。
この公共事業は、世界で初めての公共事業であったともいわれています。
農民をうまくつかうことでエジプトの平和を保っていたのです!!
こうした建設事業は、エジプトの土木建築や測地などの技術を大きく発展させました。
エジプトの文化遺産、ピラミッド。
そこには21世紀となった現在でも、多くの謎が隠されています。
ぜひ一度、この地を訪れてみてはいかがでしょ
モアイ像 ~孤島に並ぶ謎の多いポリネシアの文化遺産~
こんにちは、セカケンです!
今回紹介するのはこちら!!!モアイ像!!!
正式には、モアイ像が存在する「ラパ・ニュイ国立公園」が世界文化遺産として登録されています。ラパニュイとは、先住民の言葉で『輝ける偉大な島』を意味します。
1722年のイースター(復活祭)の日に西欧人に発見されたことからイースター島とも呼ばれます。正式名称はパスクア島。
海に背を向けて建つ887体のモアイ像で有名なラパ・ニュイ国立公園は、チリの海岸から西へ約3,700kmの南太平洋のパスクア島全域を範囲とします。
4世紀ごろ、ポリネシア系の長耳族がモアイ建設をはじめました。南米から短耳族が移住してくると、以前は5~7mであったものが巨大化し、10mを超える像も作られるようになった。
ではでは、そのモアイ像の現在の姿をみてみましょう。
きれいに並んだモアイ像。
あれあれ??よく見てください!
モアイ像が倒れている!!
なぜ??モアイ像が倒れているの????
ここがポイント
フリ・モアイ
16世紀ごろにはじまった部族間の衝突により、互いのモアイを倒しあうようになってしまったのです!!
これを「フリ・モアイ」と呼びます。
モアイ像がつくられた理由は、先住民の貴族階級の先祖を祀るため、という説が有力です。
その貴族の権力の象徴ともなったモアイは、同時に、攻撃の的にもなってしまったのです!!
やがて、18世紀には島の権力が貴族階級から戦士階級に移り、モアイ像は建造されなくなっていきました。
長い間、イースター島を見守ってきたモアイ。
その背中には、部族間の衝突で刻まれた深い悲しみが残っています。